さみしいと孤独の違いについて
3月になってしまった。
まだまだ夜は寒い。今年の冬は暖かかったけど、だからといってそう簡単に春にはならないらしい。
コロナのせいでいろんなとこが休みになったり営業時間短縮になっている。本来必要ない(と、思われている)ものから削られていくんだなと思う。
まさに、文学部なんて役に立たない!いらない!となるのと同じような感じ、なのかな。
私は文系不要論について何か反駁したいと前記事で書いたけど、だれに対してかと言えば、文系不要論者に対してでも、そんな世の中の潮流にでもなく、自分に対して何か反駁をしたい。
社会が他人がなんて思おうが関係ないわというスタンスでやっているつもりだけど、孤独には抗えなかった。の、かな?
自分に弁明しないとやっていけないのか。
わからないけど、親の金で博士までいける経済力と、周りとの差が開いていくことに焦らない精神性がほしかった。
孤独はさみしいより深い。
孤独は、マジョリティの感性に共感・納得できないくせに周りとのおそろしく深い溝に行き場がなくなっている時の感情。
さみしいは、会いたかった人に(また次は会えるというなんらかの根拠があり今回だけたまたま)会えなかったときの感情だと思う。
私は変わらず結婚と家族と子育てに価値を見出せない。
でもそれを当たり前に受け入れている人がたくさんいるから、そんな集団の中のだれかとたまたま仲良くなれても、ものすごい隔たりを感じるし、心から仲良くできなくて、自分からシャットアウトしてしまう。
いろんなものや出来事や人の感情との折り合いの付け方がいまだにわからない。
折り合いをつける=妥協って考えてしまうし、そんなことするなら一人でいいやと思ってしまう。
相手は私より広い視点でいっしょにいることを考えてくれていると思い至るにもかかわらず、その要素が一個自分の中でそろわなかったり、自分の想像できる範囲から外れていると分からなくなってしまう。
一人でも精神的に満ち足りるようになって、その上で自分が仲良くしたい人といっしょにいれるようになりたい。