考えが変わらないことは成長がないのか

 

過去記事を読むと、そうそうそりっっ😆となる。

つまり、過去のある時と今で、考え方が変わっていないのだ。

 

結婚したくないし、子どもはほしくないし、生きているか限り役割を果たさなきゃいけないから生きていたくない。。

金を稼ぐ必要がなければ、毎日好きな時間に寝て、好きな時間に起きるが叶うのに!!

 

 

 

 

 

私はお金が欲しいけど、何もタワマンに住みたいとか、子どもを私立小にブチこみたいとか、エルメスのバッグが欲しいとかじゃない。

 

人と関わらずに、毎日好きな時間に寝て起きて、音楽を聴いてヴァイオリンに触って、夏の終わりと秋の始まりが入り混じるような日にふらふら歩きたいだけなのに。これが意外と難しい。

 

 

 

前記事にも書いたけど、自分の知見をだれかに共有したり社会に役立てたいと全く思わない。

ひとりでフヒフヒ言ってられればいたって満足。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フヒイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だれでもいいから好かれたい、認められたい、みたいな気持ちもないし、関心が向く人も滅多にいない。

個々人にはそれぞれ他人の想像できない苦しみがあるってことはぼやっとわかるけど、想像力は経験に制限される派なので、「でもあなたにはマッマがいるじゃん。」と思うし、その時点で興味関心エンパシーが消え失せる。

 

 

 

 

逆に、自分的にストライクゾーンじゃない人からお気持ち向けられたらめちゃくちゃこわくないか?

自分が他者に認められて必要とされてうれぴい🥺って気持ちになるの?

 

 

経験が乏しすぎてわかりません。

 

 

 

小説を読まなくなったからかな。

一貫して言っているけど、終わりがないいろんなものがこわいんだよね。

例えば親子関係とか。

血縁、というか、別個の人格を持った他人に期待しすぎでは。そういう定量化、可視化できないものを前提としないと社会が成り立たないんだろうな。

 

そういうとこを突き詰めてみたいけど、考えは変わらない気がするし、自分のそんなところに勉強不足を感じでまた嫌になる可能性大。

 

だれかに何かを指摘されてたしかにと思ったり、他人と接触して新しく何かに興味を持つくらいの感性は持ち合わせているつもりだけど、つもりにすぎないからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたにわたしに、わたしがあなたが予想外の地雷があるし、そこを踏んでしまったら100点も「無」に急降下することを覚えておきたい。

終わりが見えないのがこわいこと

5ヶ月ぶりくらいの更新。

相変わらず何も精神的に進歩がない。

そもそも進歩とは...

 

 

とりあえず嫌なことを全部書き出してみる。

まあ、解決方法が「死」しか思いつかないのだけど。

そもそも自分の希望のとおりに生きられない時点で、生きていたとしてもそれは死んでいるも同然では。

 

①勉強は楽しいけど、あくまで一人でやっている何かが楽しいのであり、だれかに対してそれを広げることに興味がない。苦痛のレベル

 

これはずっと前から言っているけど、私は研究者になりたいのではなく、「ひとりで、だれにもじゃまされずに文字を読んでいたい」が正しいんだと思う。

自分の知見をだれかに広めたり、社会に役立たせたり、そういうことを結局は求められるわけでそれをしないと、「きみ、それは学問ではないよ。学問とはね〜」と、なんの疑いもなく自分に価値を感じている人間に詰め寄られてしまうのである。

 

 

 

 

 

じゃあ私は読書でいいです。ごめんなさい。すみませんでした。ハイ

 

ただ、アウトプットをする、つまり自分が得た知識や感想や芽生えた感情を自分の言葉で書き直す、という作業は思った以上に恩恵があると発見したのは事実である。

なので、匿名でこうして文章を書くのはいいかなと思ったし、むしろ思考整理や知識の定着、再構築につながるのでやるようにしたい。

自分のためになるので。

 

ただ、匿名かつだれもみないであろう場所に書いている時点で壁打ちコミュニケーションである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

??「学問とは〜」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ァァァアアアア

 

 

②人とかかわるのが苦痛で仕方ない

 人とかかわることで鬱になったりする人がいるし、人とかかわらなきゃ戦争とか犯罪とか生まれないじゃん。

 

 

 

 

 

 

昔から大変だけど楽しかったからヨシ🙌みたいな姿勢がわからない。

なぜ楽しいの対価として、もしくは楽しいが得られる前準備として不確実な、「大変」を乗り越えなきゃいけないの?

 

 

Full of Tanoshii じゃだめなの?

 

 

昔から友だちを作らなきゃとか思ったことなくて、なぜそうしなければいけないのかわからなかった。私は一人で楽しめることをたくさん知っているので。

 

これをしたら一切人と関わらなくていい、みたいな何かがあればいいのに。

そしたら不確実な大変さを飲み込むし、できなかったら、私は人と関わらなきゃ生きていけない、そして死ぬ勇気もない人間なんだなとあきらめもつく。

 

 

 

 

 

 

 

終わりがないってこわい。

終わりがあれば、あとどのくらい我慢すればいいかわかるけど、終わりがないも同然だから、我慢する配分を割り振れないし、精神的な負担が半端ない。

 

 

 

 

 

文章が死んでる。

おわり

人生袋小路

このブログを久しぶりに更新する。

記事を遡ると2年ほど前からの私の文章が並んでいる。

驚くほどに2年前と思考が変わっていない。人生袋小路にぶち当たったまま、分厚い壁に真正面から体当たりしている気がしてならない。というか、まさにそうなんだろう。

ステミタックル。瀕死である。

 

 

"私いいこと言っとるやんか😅"となるあたり、マジモンのヤバいやつなんかなと思うのでそろそろ外部監査を入れたいところ。

 

 

何にせよ、あとから自分の書いた文章を読み返すのは面白いし、僅かながら当時の自分を客観視することができる。

 

加えて、(誰も読まないとしても)人が読む前提の、つまりある程度ちゃんとした文章を書くことで、未来の私に多少なりとも鮮明に当時の思考を思い出してほしい気がするし、思考をなぞる手助けになればいいと思いつつ...

 

 

 

忘れることができると言うのは生きていかなきゃいけない上で必須の能力なのに、「えーあいが死者の写真を笑わせられる。」みたいな技術が世に出されたと聞いて、余計なことをするものだなと思った。

 

せっかく四十九日、一周忌、三周忌...と、思い出す期間を設けつつ、忘れる手助けをしてくれる素晴らしい仏教のシステムがあるのに。

 

 

 

 

エンパシー

昨日彼氏に何気なく、私に求めるものがあるとしたらなに?と聞いたらエンパシーと答えをくれた。

エンパシーって知ってる?わかる?と言われた。

わからないかもしれない。

彼氏もわからないと言う。僕にはないねと言う。

でも、ないから、人に求めるんじゃない、と。

 

大学生の頃は、自分で人と関わらないことを選択することができたけど、仕事ではそうはいかない。私ではわからないことや決められないことがたくさんある。

だから嫌でも人と関わらないといけない。

正直仕事の内容的には嫌じゃないけど、人と関わるのが億劫で、それを前面に出して、いつものように全部シャットアウトしてしまいたい。

 

長期的視点()で物事を見れる人間になったので、そんなことはしないけれど。

 

 

仕事をして思ったのは、どんなに仕事のできる人でも、高学歴な人でも、詰まるところ"お気持ち"に寄り添って欲しくて仕方ないんだなあということである。エンパシーーーーーー

 

簡単に言えば、"私はこんなに大変だった"とか、"こんなにがんばった”とかを認めてほしくてたまらない。

可視化、数値化できないそういうことを、パブリックな場でいい年した大人が言っていても仕方ないと思うのだけど。無駄でしかないと思う。心の底からそう思う。

 

がんばったら、努力したら、許してもらえる世界で生きてきた人間が大嫌いだと彼氏は言う。

私もそう思う。

 

それなのにエンパシーがほしいとは、なにを考えているのか。

 

私は0か100かな性格で、自分の目指すものや状態が手に入らなければ投げ出すし、興味がなくなってしまう。どうでもよくなってしまう。

自分の想像を超えて相手が努力してくれていることに思い至っても、自分で見定めた要素がどれか一つ欠けてしまうと、全部信じられなくなってしまう。

 

折り合いの付け方がわからない。

そもそもどの程度で折り合うのか想像がつかない。

 

今日も、ランチミーティングを楽しみに午前中を乗り切りました⭐️と言っている人を横目に、私は一人でご飯を食べていたのだけど、彼氏には私なりのエンパシーを渡していきたいなと思う。

ブログにはじめて彼氏のこと書いた。キモ。

 

さみしいと孤独の違いについて

3月になってしまった。

まだまだ夜は寒い。今年の冬は暖かかったけど、だからといってそう簡単に春にはならないらしい。

 

コロナのせいでいろんなとこが休みになったり営業時間短縮になっている。本来必要ない(と、思われている)ものから削られていくんだなと思う。

まさに、文学部なんて役に立たない!いらない!となるのと同じような感じ、なのかな。

 

私は文系不要論について何か反駁したいと前記事で書いたけど、だれに対してかと言えば、文系不要論者に対してでも、そんな世の中の潮流にでもなく、自分に対して何か反駁をしたい。

 

 

社会が他人がなんて思おうが関係ないわというスタンスでやっているつもりだけど、孤独には抗えなかった。の、かな?

自分に弁明しないとやっていけないのか。

 

わからないけど、親の金で博士までいける経済力と、周りとの差が開いていくことに焦らない精神性がほしかった。

 

孤独はさみしいより深い。

孤独は、マジョリティの感性に共感・納得できないくせに周りとのおそろしく深い溝に行き場がなくなっている時の感情。

さみしいは、会いたかった人に(また次は会えるというなんらかの根拠があり今回だけたまたま)会えなかったときの感情だと思う。

 

 

私は変わらず結婚と家族と子育てに価値を見出せない。

でもそれを当たり前に受け入れている人がたくさんいるから、そんな集団の中のだれかとたまたま仲良くなれても、ものすごい隔たりを感じるし、心から仲良くできなくて、自分からシャットアウトしてしまう。

 

いろんなものや出来事や人の感情との折り合いの付け方がいまだにわからない。

折り合いをつける=妥協って考えてしまうし、そんなことするなら一人でいいやと思ってしまう。

相手は私より広い視点でいっしょにいることを考えてくれていると思い至るにもかかわらず、その要素が一個自分の中でそろわなかったり、自分の想像できる範囲から外れていると分からなくなってしまう。

 

 

一人でも精神的に満ち足りるようになって、その上で自分が仲良くしたい人といっしょにいれるようになりたい。

文系不要論について何か意見が持ちたい

私の2020年の目標。

私立文系なので😅(てへぺろ)というお家芸ができる点かなあ。(違う)

 

 

私の専攻は思想史である。

すっかり140字のインスタントな意思表示(?)に馴染んでしまったけど、私は言葉に興味がある。

その人が何かに対してどんな感情を持ってそれに対してどんな評価をするのか、そのためにどんな言葉を使うのか、そこにたまらなく興味がある。

もちろん、その言葉のチョイス、感覚に正解不正解なんてないんだけど。

でも、言葉のチョイスにはその人の隠しきれないいろんな感覚や経験が無意識に出る、と思うし、それがおもしろい。

 

そんな風にいまだに考えているけど、私には言葉が全能だと思っている節が間違いなくあったし、今もあると思う。

たとえば、本人はしたくても言葉にできない時があるし、言葉にしない方がいい時もある。

私は言葉にできない、表現が思いつかない、みたいな感覚があんまり理解できなくて、それで勝手に相手を見定めてしまうところがあるから、もっと想像力がほしい。

もう一点、(自分なりに丁寧に)言葉にすれば必ず相手に誠意として伝わる、と謎の自信があったんだけど、その言葉はあくまで自分の言葉なのであり、それが自分の意図として相手に伝わるなんて傲慢甚だしい。

 

そんな反省があるのだけど、言葉は思想である。制度・政策・社会の流行り等には必ず、それが生まれる所以たる思想がある。

私はそんなものに変わらず興味がある。

 

 

そもそもなぜ文系不要論に意見を持ちたいのか。

それは、生粋の文系(私立文系文学部)の私が、現状として文系不要論に対し「それな。いらなくね。ワロタww」くらいしか思わないからである。

 

私は将来博士(史学)をとりたい。自分の自己満足の極みとして。延々と、制度や政策の中に潜む、社会の底に存在する思想について考えていたい。自分のやっていること、やりたいことを突き詰める一環として、文系不要論に対して意見を持ちたい。

 

すくなくとも、これを書いている今現在、私は、暗記を楽しめない人はそもそも文系(少なくとも史学)には向かないのでは、くらいしか意見がない。

 

 

休みがあと3日なのに部屋の掃除を一切してないし、今年のグラコロの発売期間長くね。

 

 

あと小説を読みたいな。私が小説を読まなくなった理由、文系不要論に通ずる気がしてしまう。なんの知識も得られない的な。

 

"そういうこと"じゃないんだ。それを言葉にしてみたい。

 

はやく帰った日には

何かしようと思うけど、明日のお昼ご飯を作って、米炊いたらもうふうってなってしまった。

 

寒くて起きられないから起きる一時間前に暖房がつく設定にしているんだけど、あったかいところから出たくなくて起きる気がしない。

 

 

お布団の温もりって暖房器具じゃ再現できなくて(近そうなのはこたつ?)、ぬくぬく気持ちよくて、どのくらいでも寝ていられる。

 

休みの日を充実させるには午前中に活動をスタートさせることが大事なんだけど、なんで休みなのに午前中に起きなければいけないのか全然意味がわからないから14時とかに起きるやつを学生の頃から繰り返している。

 

140字の意思表明に慣れてしまうと長い文章が自分の想像を超えて書けなくなる。

 

 

 

さあ、どうやら、人間関係というのは不断の努力をしないと継続されない、ということが決定的になってきた。

関係を維持したい双方の努力が必要ではあるんだけど、相手が努力をしているかな?というのはぎりぎりにならないとわからない、というかわかる時って、相手の努力のレベルが余程のものなんだろう。

で、なんら確信なしに、自分は、相手との人間関係を維持継続させるために、正解のない努力をし続けなければならない。

司法試験の方が簡単だろ

 

弁護士になってセンセェって呼ばれて自己肯定感が満たされる人間になりてえ。

 

 

ある種の信仰としか思えない。

根拠のない確信を、どうやって産出するのか。

けっきょくは、自分に対する自信なんだろうな。

自分がかわいくないと、好きじゃないと、子供を産もうって気持ちにならないんだけど、なんか、そんな感じ。

自分で得た、目に見えるものにしかそんなような確信を見出せない私は、自立したまま人を受け入れるというか、共存するというか、そういうことができる精神年齢に達してないんだ。

 

私も信仰が欲しいけど、私が欲しがっているのはその先にあるご利益であって、信仰もしきれてないのに手に入るわけがない、の、かな?

期待を裏切られても、想定外でも、あふたーおーるできみが好き、と思うべきなんだろうか。

そう思っているつもりだけど、それでも、努力が自分の想定の中で作用するものにしかなんというか、関われない。