はやく帰った日には
何かしようと思うけど、明日のお昼ご飯を作って、米炊いたらもうふうってなってしまった。
寒くて起きられないから起きる一時間前に暖房がつく設定にしているんだけど、あったかいところから出たくなくて起きる気がしない。
お布団の温もりって暖房器具じゃ再現できなくて(近そうなのはこたつ?)、ぬくぬく気持ちよくて、どのくらいでも寝ていられる。
休みの日を充実させるには午前中に活動をスタートさせることが大事なんだけど、なんで休みなのに午前中に起きなければいけないのか全然意味がわからないから14時とかに起きるやつを学生の頃から繰り返している。
140字の意思表明に慣れてしまうと長い文章が自分の想像を超えて書けなくなる。
さあ、どうやら、人間関係というのは不断の努力をしないと継続されない、ということが決定的になってきた。
関係を維持したい双方の努力が必要ではあるんだけど、相手が努力をしているかな?というのはぎりぎりにならないとわからない、というかわかる時って、相手の努力のレベルが余程のものなんだろう。
で、なんら確信なしに、自分は、相手との人間関係を維持継続させるために、正解のない努力をし続けなければならない。
司法試験の方が簡単だろ
弁護士になってセンセェって呼ばれて自己肯定感が満たされる人間になりてえ。
ある種の信仰としか思えない。
根拠のない確信を、どうやって産出するのか。
けっきょくは、自分に対する自信なんだろうな。
自分がかわいくないと、好きじゃないと、子供を産もうって気持ちにならないんだけど、なんか、そんな感じ。
自分で得た、目に見えるものにしかそんなような確信を見出せない私は、自立したまま人を受け入れるというか、共存するというか、そういうことができる精神年齢に達してないんだ。
私も信仰が欲しいけど、私が欲しがっているのはその先にあるご利益であって、信仰もしきれてないのに手に入るわけがない、の、かな?
期待を裏切られても、想定外でも、あふたーおーるできみが好き、と思うべきなんだろうか。
そう思っているつもりだけど、それでも、努力が自分の想定の中で作用するものにしかなんというか、関われない。